歴史

ジョイ・ディヴィジョンの歴史は、あるツアーから始まるといってもいいです。
76年、セックス・ピストルズの「アナーキー・ツアー」がマンチェスターにやってきました。
会場のエレクトリック・サーカスには、バーナード・サムナーとピーター・フック、
イアン・カーティス、モリッシー、ハワード・ディヴォード、マーティン・ハネット等
後にこの町を代表するミュージシャンとなる人物や、
トニー・ウィルソンやロブ・グレットンといった
この町を代表するレーベル、ファクトリーを作った人物がいました。
マンチェスターの音楽は、この日から始まったといっても過言ではありません。
(そこら辺は映画「24アワー・パーティ・ピープル」に詳しいので、そちらをどうぞ。)

同じ学校の友達同士で、このライヴを見て衝撃を受けたバーナードとピーターの二人は、
この年の暮れにスティッフ・キトゥンズを結成しました。
そこへクラブで知り合ったイアンが加入し、さらにイアンの友達だったスティーブン・モリスが加入。
バンドの名前を同年発売のデヴィット・ボウィのアルバムからとったワルシャワへと変えます。
このころの彼らはまだパンク・バンドの範疇を超えていませんが、イアンの狂人的なパフォーマンスが
当時まだ少なかったマンチェスターのパンク・シーンでひときわ目立った存在だったそうです。
しかしこの頃、ロンドンでワルシャワ・パクトというバンドがデヴューしたことから、
バンドの名前をナチスの娼婦の収容所の名であるジョイ・ディビジョンと名前を変えました。

78年、彼らにとって初めてのシングルとなる「An Ideal For Living」を自費で発表。
この頃の彼らは、日々自分たちの音楽を進歩させていて、
曲を作るたびに、ちょっと前に作った曲が古くなっていく時期だったそうです。

この時期に彼らは、トニー・ウィルソンと接触します。
当時地元のグラナダ・テレビで活躍していた彼は、
インディ・レーベル、ファクトリーを作ろうと活動していた時期でした。
トニーと彼らが顔見知りだったということもあって、彼らはファクトリーと契約。
78年末、ドゥルッティ・コラム、キャバレー・ヴォルテール、ジョン・ダウィとの
シングル2枚組、「A Factory Sample」を発表。
これがファクトリーからの最初のリリースとなります。

「A Factory Sample」で注目を集めたジョイ・ディヴィジョンは、アルバムのレコーディングに入ります。
プロデューサーにマーティン・ハネットを迎え、ストロベリー・スタジオで録音を行いました。
そして完成したのが、「Unknown Pleasures」です。

その後バンドは「Transmission」等のシングルやコンピ盤、ライヴなど精力的に活動を行います。
そして2週間でセカンドアルバム「Closer」を録音します。
しかしその直後、イアンがUSツアーを目前にして首吊り自殺をします。
原因は恋人や妻との関係、持病の癲癇など様々な説がありますが、
僕にはどれも適切ではないような気がします。
しかし、彼の死がラストシングル、「Love Will Tears Us Apart」や
死後発表された「Closer」をチャートの上位に送る要因となります。

イアンの死後、残されたメンバーはスティーブンの彼女、ジリアン・ギルバートを加え、
ニュー・オーダーを結成します。
彼らは旧友の詩を歌った「Blue Monday」を世界中でヒットさせ、
イギリスのクラブ・カルチャーを作り上げていきます。